国産技術の拡大と自社技術の開花 ~戦後復興から高度成長期へ~
第2次世界大戦後、本社工場(蒲田)はほとんど全焼の状態、さらに戦時中の軍納入品の未入金や軍需補償の請求権は取り消され、当社は存続の危機に陥りました。1948年、「企業再建整備法」により、それまでの株式会社東京計器製作所を解散。新たに株式会社東京計器製造所、および長野県に移していた圧力計関連の事業を引き継ぐ株式会社長野計器製作所(現長野計器株式会社)の二つの新会社が発足、別会社としての歩みを始めることになりました。これ以降、東京計器は海外企業との技術提携を積極的に進め、復興から発展への道を邁進していきます。
Column 精密機器メーカーが作った圧力鍋
既存事業の製品拡大
1950年代後半(昭和30年代)、日本の経済水準は戦前を上回り好景気が本格化していきました。当社も新しい技術を武器に大きく飛躍するターニングポイントを迎えました。
航海計器
船舶事業では、当時の日本にはなかった小型かつ低価格のジャイロコンパスを開発、漁業の発展に大きく寄与しました。1985年(昭和60年)までの小型船用出荷台数は2万1千台余りとなり、世界のジャイロコンパス史上、1機種で断然トップの記録を達成しました。オートパイロットについても装備が簡単で低価格、メンテナンスも容易という新型を開発、現在のオートパイロットの原型となりました。

写真左より
Es型ジャイロコンパス
Es型ジャイロコンパスを搭載した北洋漁船

写真左より
スペリー式超音波探傷器
レール探傷車
油圧機器市場への参入
航海計器に使われていた油圧機器に着目した当社は、当時の油圧機器の世界トップメーカーの米国ビッカース社と1954年に製造販売契約を締結。産業機械に不可欠な油圧機器の国産化に至りました。政府の機械工業に対する諸施策も後押しして日本の機械工業の技術革新は一段と高まり、その機能部品としての油圧機器は需要が急増。基幹産業である鉄鋼をはじめ、造船、自動車、電気製品、建設機械などの発展に大きく寄与しました。
この頃、顧客向けに開設した油圧講習会「ハイドロリックスクール」は、現在も油圧制御システムカンパニーによって受け継がれています。

写真左より
ハイドロリックスクール(1956年頃)
ビッカース社による油圧工場視察(1956年頃)
高度成長期以降に続く...(更新予定)